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骨が語る
片山一道著『骨が語る日本人の歴史』
【ちくま新書 2015年6月10日 第3刷】
片山一道:京都大学名誉教授。先史人類学・骨考古学
本の帯に《 縄文人は来なかった 骨考古学が明らかにする日本人の起源
「弥生人顔」などない 》
のキャッチコピーが載っている。
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著書によれば、「縄文人の素性をどう見るか?」。それこそが、明治の頃より100年以上にわたり、日本人の起源、あるいは日本民族の起源をめぐる論争の中で最大の難問であった、という。
要約すれば、氷河期の、海水面が現在よりも120mも低かった海退期には、東シナ海は大平野となり、日本列島は大陸に突き出た半島の様になり、大陸から古代人がやってきた。氷河期が終わり(縄文)海進期になると海水面が10mも高くなり、日本列島は全くの孤立列島になった。
日本列島の近海には、暖流・寒流が包むように流れ、そのため植生には恵まれた環境になった。その環境の中で生まれたのが縄文人である。本の帯の「縄文人は来なかった」とは、縄文人は日本列島で誕生し、日本列島で育まれた、日本人の最祖先という意味である。
弥生時代を迎えると、外部世界との交流が始まり外部の文化を取り入れ生活様式などに変化をもたらす。この生活様式の変化に合わせ、縄文人が弥生人としての特徴をもつ日本人に変化していく。帯に 「弥生人顔」などない という意味は、生活様式の変化に合わせて縄文人が弥生人に変化した、という事である。
つまり、私たちが漠然と抱いている、縄文人がどこからか来て、その後にまた弥生人が来て日本の支配層になった、というイメージは誤りである、と言うものである。著書ではその事を
《 日本人の起源論と日本文化の起源論を混同してはならない 》と釘を刺している。
著書の結論は、縄文人が日本人の先祖であり、沖縄人、アイヌ人も同じ縄文人、すなわち日本人ということである.
片山一道(かたやま かずみち)
1945年(昭和20年)広島県生まれ。
京都大学名誉教授 先史人類学・骨考古学。 |
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椅子がこわい
夏樹静子著『私の腰痛放浪記 椅子がこわい』
【 文春文庫(2000年6月10日 第1刷)】
夏樹静子氏は著名な小説家であり、推理作家である。書名の「椅子がこわい」は推理小説ではなく、夏樹氏が54歳のときに発症した腰痛、その腰痛との3年余におよぶ壮絶な闘いの記録である。
本書は、大きく二つに分かれた構成になっている。
一つは、激しい腰痛に苦しみ、考えられる限りの療法を試み放浪した第1章〜第4章。
もう一つは、どうしても信じられなかった唯一の正しい治療法に辿りつく第5章〜第9章。
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私がこの本を知ったのは、かつて夏樹静子氏本人が月刊誌『文藝春秋』に書いた紹介記事による。あまりの腰痛の凄まじさに驚いて、つい買って読んでしまった。
その腰痛はよほど苦しかったのだろう、本書の「まえがき」は次の様に書き出されている。
なお、夏樹静子氏は福岡市に在住し、作家活動を行っていた。
《 私は、1993年1月から約3年間、原因不明の激しい腰痛と、それに伴う奇怪とさえ感じられるほどの異様な症状や傷害に悩まされた。考えられる限りの治療
− 最後に、どうしても信じられなかった唯一の正しい治療法に辿りつくまで − を試みたが、何ひとつ効なく、症状はジリジリと不気味に増悪(ぞうあく)した。私は心身共に苦しみ抜き、疲れ果て、不治の恐怖に脅かされて、時には死を頭に浮かべた。 》
T.考えられる限りの治療を求めて放浪(第1章〜第4章)
第1章では、激しい腰痛や異様な症状・傷害の具体的な事例が語られる。4〜5頁も読むと、どうしてもその先が知りたくなり、最後まで読まざるを得なくなる心理に追い込まれる。
■激しい腰痛、異様な症状や傷害とは・・・
《 目覚めた直後から発生する痛みは、背中のあたりまでどんどん増幅して、どうしても寝ている状態に堪えられなくなってくる・・・。そこでとにかく起き上がって、着替えをするが、すると再び痛みが頭をもたげ、加えて背中を立てていることがなんとも怠(だる)くしんどく、まもなくまたそのへんに横になる。・・・結局朝から晩まで、ほとんどの時間、身体をエビのように曲げてジッと横たわって堪えている以外に何もできないという日も少なくない。どんな鎮痛剤、坐薬も注射も、私には効かない。・・・ 》
次の様な表現に出合うと、固い力で羽交い絞めされ、もがき苦しんでいる姿を思い浮かべてしまう。
《・・・全身が異常に怠(だる)くて疲れる。とくに腰から背中にかけて、鉄の甲羅でも貼り付けられたような、あるいは全身が地に吸い寄せられるような、とでもいおうか。そんな時には、部屋の端から端まで、這(は)って行こうかと思ってしまう。》
「椅子がこわい」とは、腰掛けること自体が苦痛なので、その様な状態になることを恐れて避けるという事である。
《 腰掛けられない、坐れないという障害によってどんな不便が生じるかといえば、レストランや喫茶店に入れない。映画、観劇、コンサートなどはまったく無理。・・・電車やバスの椅子に掛けていられないのだから、どうしても必要だあって移動するさいには、車の後ろのシートに横になって行くほかはない。坐ること自体が苦痛という病人は、親しい人と会食し、お酒でも飲んで、いっとき憂さを晴らすことも許されないのである。》
■考えられる限りの治療とは・・・
継続して1日 7、8時間、いちばん長くて13時間も机にかじりついて仕事をしていた夏樹氏の腰痛は、次の様に発症した。
《 忘れもしない1993年1月20日水曜の朝、54歳になってちょうど1カ月目、朝食後ふだんの通り書斎に入った私は、デスクの前に掛けて前日の原稿に目を通し、さてその続きを書き始めようとした。ところが、そうしているうちに、腰が怠いようなつらいようななんともいえず頼りない感じで、腰掛けているという姿勢がどうにも耐えられなくなって立上ってしまったのである。
何回か坐り直してみるが、どうしても我慢できない。・・・。》
呆然とし、周章狼狽した夏樹氏は、まずホームドクター的な立場の外科病院・良永拓国先生に電話すると《「そんな話は聞いたこともないから、じきに治るでしょう。今日は1日仕事は休みということにしておきなさい」と彼はのどかな口調で答えた。》とある。そこで念のため、近所で評判の高い福岡整形外科病院・徳永純一先生の診断を受ける。検査やレントゲン撮影の結果、とりたてて問題もなく何の病気もないという診断だった。
受診後、約1カ月は症状はすっかり消えるが、2月末に上京したおり腰痛が再発する。《 この上京を境にして、私の腰はもう元へ戻らなくなった。》という。ここから腰痛放浪が始まる。
夏樹静子氏は著名な推理作家なので交友関係が広く、多くの人から色々な治療法を紹介される。苦しい腰痛から逃れるため、すべての治療を試みる。ここでは時系列を無視して、試みた治療を列挙すると次のようになる。なお、著書ではすべて実名で記されている。
●主な病院、治療院関係
・福岡市の外科病院
整形外科病院
灸頭鍼の治療
電気治療院
整体研究所
・九州大学病院の整形外科
産婦人科
内科
神経内科
精神科
心理学教授によるカウンセリング
・大分県中津市の開業医
整形外科病院
・東京のカイロプラクティックと鍼の治療院
中国鍼の治療院
・名古屋の国立名古屋病院産婦人科
●その他の療法
・手翳(かざ)し療法
・気功
・マッサージ、サウナ
・温熱療法
・足つぼ療法
・霊の供養・・・・・・・・夏樹静子氏を頼って取りついたといわれる霊の供養
・野菜スープ・・・・・・腰痛に野菜スープが良いというのでお手伝いさんが毎日作ったスープ
・庭の池の埋立・・・「家の中に動かない水があるのはよくない」ということで、池の水を抜く
ことをお手伝いさんが提案。最初は非科学的と一笑に付すが、後に池を
埋める
・放電療法(?)・・美容室の店主が、腰痛の原因は生体内のプラス電気の過剰な蓄積のため
という。店主はわざわざ夏樹氏の家まで行って、銅板の草履を作り、そ
こからコードを庭まで伸ばし先端に付けたアース棒を土中に差し込む。
夏樹氏は毎晩、その草履をはいて寝て体内の電気をアース(放電)する
治療法
■器質的疾患はない。心因性の腰痛か(?)
最初は笑っていたご主人も、途中から尋常ならざる事態に気付き、夏樹氏の腰痛に正面から向き合うようになる。
さて、多くの検査や治療を重ねるうちに、夏樹静子氏には器質的疾患(内臓や器官、神経、筋肉などの異常)が認められないため、夏樹氏が絶対に認めたくない「心因性」による腰痛が疑われることになる。彼女は次の様に独白する。
《 ・・・これまでお世話になった何人もの整形外科の先生方は、誰1人私の身体に器質的疾患を見出しておられない。そして時がたつにつれて「心因性」の見方に集約されてくるようだ。》
そして、次のような激しい言葉を吐く。
《 ・・・素人の、だが誰よりも自分のことは自分で分かるはずの私としては、どうしても心因性には肯(がん)じられない。本能と直感が「NO」と叫ぶ。・・・。
・・・いやもっと正直にいえば、先生方は私の腰痛を治しようがなくて、仕方がないから「心因」という掴みどころのないものに責任を転嫁して逃げてしまっているような気がした。》
U.どうしても信じられなかった唯一の正しい治療法へ辿りつく(第5章〜第9章)
ご主人の高校・大学の先輩である出光興産の役員より、《「・・・一度平木先生に電話して相談してごらんなさい」》と出張先の中国から、東京に居た夏樹氏に電話が入る。平木英人先生は新宿の検診センターに勤務する内科と心療内科の医師だった。その時は先生に会わず福岡へ帰る。
電話から20日ほど後、夏樹氏は福岡の自宅で、訪問された平木先生の診断を受ける。
過去の検査や治療歴などう含む問診などをへて
《 彼は私の考えを充分に聞き取った上で、きっぱりと診断を口にされた。
「典型的な心身症ですね」》
どうしても信じられなかった心因による心身症と診断され、激しく抵抗する。
《 「でも、心因でこれほどの激痛が起こるとは考えられません」
「心因だからこそ、どんな激しい症状でも出るのですよ。そして神経質な人ほど、自分
ほど苦しいものはないと思いこんでいるんですね」》
本書で「心身症」は次の様に説明されている。
《(1982年の羽田沖日航機墜落事故当時、)当初のマスコミの報道では、心身症の患者は
発作的に精神異常を起こす可能性があるかのようにいわれていましたが、・・・大変な誤解
でした。
心身症とは、精神的に健康な社会人に、ストレスや生活様式の悪影響などが原因とな
り、さらに各人の体質が絡みあって、さまざまな身体症状がひき起こされたケースをい
うのです。もっと簡単に、心の問題で起きる身体の病いの総称・・・。》
平木先生が福岡滞在中に、自律神経失調によるさまざまな症状からの解放を目的とした、「自立訓練法(AT:Autogenic Training)」を教わる。
平木先生の帰京後、約5ヶ月間、朝昼晩と1日3回の自立訓練を行う。その結果を<AT経過表>として、毎日、FAXによるやり取りを経て、1996年の1月から平木先生が副院長として転勤された「南熱海温泉病院」に約2ヵ月間入院し治療を受けることになった。
■12日間の絶食療法
《「・・・心身医学には数々の療法がありますが、入院以来聴取や観察を続けた結果、あなたには絶食療法が最適であろうという結論に達しました」
「つまり、絶食するんですか」
「12日間絶食して頂きます。・・・・・・。》
こうして過酷な絶食療法がはじまった。
その過酷さは、治療が始まってから襲う激痛に堪えかねて吐いた次の言葉にあらわれている
《・・・・まる24時間痛み続けて、まだ止まらないのだ。・・・こんな療法はやめて帰ろう! 》
「夏樹静子」という作家の存在を支え切れなくなった、主婦・出光静子の闘いはつづく。
その続きは、「椅子がこわい」を読んで貰うこととし、この案内を閉じることにします。
本書の裏表紙に
《 この本を、私に心身の健康を取り戻して下さった
平木英人先生に捧げます。 》
とある。平木先生の略歴を付記しておきます。
平木英人先生の略歴
1935年福岡県生まれ。久留米大学医学部卒業、同大学循環器内科入局後、日本心身医学の発祥地ともいえる九州大学医学部心療内科へ特別研究生として入局。善仁会南熱海温泉病院副院長、診療部長を経て、99年内科および心療内科の平木クリニックを開設。 |
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