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平和条約と領土

 平和条約と国境

平和条約と国境へ ようこそ!

サンフランシスコ平和条約を締結しなかった、ソ連(ロシア)、中華民国(台湾政府)、中華人民共和国(中国)、大韓民国(韓国)、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との国交・国境に関して、その概要を紹介します。

ギャラリー

イメージ01

平和条約と国境

国境を画定し平和条約を締結するのが常道だが、ロシア、台湾、中国、韓国、北朝鮮との間には、色々な問題がある。

イメージ02

べた凪の海

さざ波の一つも立たない静かな海。この様な海の状態を「べた凪」と言います。「凪(なぎ)」の字は日本人が作った字。日本の海は凪の様に平和な海であってほしいものです。

イメージ03

指輪とリボン

指輪に赤いリボンが付いています。指輪は結婚指輪なのでしょうか?
赤いリボンが、私にはとても情熱的に感じられますが、皆様にはどう感じられますか?

イメージ04

沖縄海洋博公園

公園は、昭和50年、沖縄国際海洋博覧会を記念して、その跡地に国営公園として作られました。今も沖縄の観光地として賑わっています。

平和条約と国境お知らせ

  〔国交の形態〕
   国交樹立・・・・・ある国を正式に承認し、正式に政府間レベルでの国交(外交関係)を樹立すること
          ⇒ 日本・スイス国交樹立150周年
            日本・インドネシア国交樹立60周年

   国交回復・・・・・・戦争等によって国交断絶をしていた国家が、国家間の外交関係を回復すること。
          ⇒ ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連。現ロシア)
            中華民国(台湾政府)

   国交正常化・・・・ある国家を正式に承認し、正式に政府間レベルでの国交(外交関係)を樹立して正常な国交関係を
          開始して行くことを指す(※-1参照)。
          ⇒ 中華人民共和国(中国)
            大韓民国(韓国)

   未承認国家・・・・ある国を正式に承認していない国家
          ⇒ 中華民国(台湾政府)
             *1972(昭和47年)、日本と中国(北京政府)との日中国交正常化に伴い、日本は中華
              民国(台湾政府)の承認を取り消したため。
            朝鮮人民民主主義共和国(北朝鮮)
            パレスチナ など

   ※-1 国交樹立と国交正常化の違い
    ⇒ 国際的には「国交樹立」が普通の表現で、「国交正常化」というのは変な言い方です。日本と中華人民
      共和国(中国)が正式に国交を樹立する時に、中国側が「正常化」という表現をした名残で、関係の良く
      なかった国と国交を結ぶときに限って「正常化」と言うようになりました。
      (参考文献:ヤフー知恵袋:「国交正常化と国交樹立の違いはなんですか?」2009/4/26)

   〔国交樹立の用語例〕
      ・日本・デンマーク国交樹立150周年親善大使を任命!
      ・日本・スイス国交樹立150周年記念
      ・パナマ、中国と国交樹立
      ・中国・イスラエル国交樹立
 
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日本と中華民国(国民政府)

■国交回復 
日本と中華民国は、
1952(昭和27)年、台湾の台北で日華平和条約を締結して両国における第二次世界大戦の戦争状態の終了を宣言し、国交を回復した。
  条約名本国と中華民国との間の平和条約
  通 称:日華平和条約
1972(昭和47)年、日本と中華人民共和国(中国)との日中国交正常化により、日華平和条約は失効した。また、中華民国に対する国家承認を取り消した。
⇒ 日本は中華民国(台湾政府)の国家承認を取り消したため、中華民国は未承認国家である。

■領土問題
(1)日本は、サンフランシスコ平和条約第二条に基づき、日華平和条約においても、台湾及び澎湖諸
  島並びに新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄した。
  ⇒ この中に尖 閣諸島は含まれていない
(2) 1968年、国連アジア極東経済委員会〔エカフェ(ECAFE)〕が、東シナ海域に大規模な石油・
  ガス田が存在する可能性を発表。
  1971年、エカフェの発表後、台湾は尖閣諸島の領有権を主張し、これに中国も追随して領有権
   を主張した。
 
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日本とソ連(現ロシア)
■国交回復 
日本とソ連は、
1956(昭和31)年、モスクワで日ソ共同宣言(条約)に署名して両国の戦争状態の終了を宣言し、外交関係も正常化した。
国境画定問題は先送りされたため、平和条約は締結されなかった。
  条約名日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言

  通 称:日ソ共同宣言
■領土問題
北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)に関わる国境画定問題は先送りされた。
 
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日本と中華人民共和国(中国)
■国交正常化 
日本は、1949(昭和24)年に建国された中華人民共和国(中国)を承認し、
1972(昭和47)年、日中共同声明を発表して日中の国交を正常化した。
これにより、日本と中国
との間の正式な国交がない状態を解決した。また、日中共同声明に基づいて日本は中華民国(台湾政府)に断交を通告した。
1978(昭和53)年、日中平和条約が締結された。
  条約名日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約

  略 称:日中平和条約
■領土問題
○日本の立場
《尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり, 現に我が国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐって解決し なければならない領有権の問題はそもそも存在しません》(外務省ホームページより)
○中国の動き
(1) 1968年、国連アジア極東経済委員会〔エカフェ(ECAFE)〕が、東シナ海域に大規模な石油・
  ガス田が存在する可能性を発表。
  1971年、エカフェの発表後、中華民国(台湾政府)は尖閣諸島の領有権を主張しはじめ、こ
  れに中国も追随して領有権を主張した
(2)1992年、中国は領海法(中国の国内法)を制定し、尖閣諸島(中国名:釣魚島)を中国領と明
  記した
  日本政府(宮澤内閣)は、日中外交当局協議での抗議や、訪日した江沢民総書記に対して宮澤総
  理が善処を求めるなどした
 
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日本と大韓民国(韓国)

■国交正常化 
日本は、1948(昭和23)年に建国された韓国を承認し、1965(昭和40)年、日韓基本条約を締結し日韓の国交を正常化した。
これにより、日本は韓国に対する莫大な経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化などが取り決められた
なお、竹島(韓国名:独島)問題は、紛争処理事項として棚上げされた。
  条約名日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

  略 称:日韓基本条約
■領土問題
(1)サンフランシスコ平和条約が発効する1952年4月以前の1月に、韓国の李承晩大統領は竹島を
  韓国領とする李承晩ラインを設定した。
(2)日韓基本条約締結に際しては、竹島(韓国名:独島)問題は紛争処理事項として棚上げされた
 
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日本と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
■未承認 
日本は、北朝鮮を国際連合(国連)加盟国の中で、唯一の未承認としている。
また、日本は朝鮮半島南部の韓国政府を「朝鮮半島における唯一の合法的な政府」としているが、韓国による朝鮮半島北部地域領有も承認しておらず「地域」扱いとなっている。

 
       出典:フリー百科事典 ウィキペディア、外務省ホームページ他  
     

              《 国交回復・正常化等の関連年表 》
 西暦  歴史的事項  条約等  領土等の国境関係
1948  大韓民国(韓国)成立(8月)、朝鮮民主主義共和国成立(9月)     
1949 中華人民共和国建国(10月)    
1950 朝鮮戦争勃発    
1951 サンフランシスコ平和会議 サンフランシスコ平和条約 日本の主権回復(独立) 。発効は1952年4月
1952  (竹島問題)李承晩ラインの設定(1月)   竹島(韓国名:独島)問題の発生 
1952 日本と中華民国の国交回復 日華平和条約 
1953 朝鮮休戦協定     
1956  日ソ国交回復  日ソ共同声明  国境画定問題は先送りのため、平和条約は未締結
日本の国連加盟     
1965 日韓国交正常化  日韓基本条約  竹島は紛争処理事項として棚上げ 
1968 (尖閣諸島@)国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が、東シナ海域に大規模な石油・ガス田が存在する可能性を指摘    
1971  (尖閣諸島A) エカフェ(ECAFE)の発表を受け、中華民国(台湾)が尖閣諸島の領有権を主張し、これに中国も追随した。 
1972    沖縄本土復帰     
米ニクソン大統領訪中 米中共同声明   
日中国交正常化   日中共同声明 日本は、日中共同声明で、中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認。
このため日華平和条約は失効した。 
日華平和条約 失効
1978 日中平和友好条約  日中平和友好条約   
1992  中国、領海法を制定し尖閣諸島(中国名:釣魚島)を中国領と明記   中国側よりの、尖閣諸島問題の発生  

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北方領土問題の歴史と経緯

 参考出典:八幡和郎著『領土の世界史』
      山田吉彦著『侵される日本 われわれの領土・領海を守るために何をすべきか』
      石川晶康著『近現代日本史講義の実況中継(上)』
       外務省ホームページ、その他
千島に赤蝦夷(あかえぞ:ロシア人)が現れたとの報告を受け、徳川幕府は調査を行います。
1798年、幕臣の近藤重蔵を択捉島に派遣、近藤は「大日本恵登呂府(えとろふ)」の碑を建てた。
        1809年、樺太(からふと)を探検した間宮林蔵は、大陸と樺太の間に海峡があることを発見した。
        この海峡を間宮海峡という。
    T.日露和親条約より以前   
      ■日本の動き
・1593年、戦国時代まで蝦夷地管領・安東氏の配下にあった蠣崎慶広(かきざきよしひろ)が、豊臣秀吉に拝謁して
 蝦夷島主と認められた。
・秀吉死後、蠣崎の姓を、徳川家康の旧姓松平の「松」と前田利家の「前」の字を合わせ、「松
 前」と改めた。
・松前氏は、北海道はコメがとれないため、海産物やアイヌ民族との交易の利益の一部を献上す
 ることにより、幕府から一万石相当の大名の扱いを受けた。
・1644年、三代将軍家光の治世下の幕府は全国の諸藩に領地の地図を献上させ、これを一体化し
 て『正保御国絵図(しょうほう おくに えず)』を作成した。
  ⇒松前藩の献上した地図に「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」の名が書かれている。このこ
   とは、
江戸初期の段階で、すでに北方四島の存在を認識し、支配地に編入していたことを示
   している。
・1754年に、松前藩は、国後島に、アイヌとの交易の拠点(「場所」という。)を設置し、ここ
 を拠点に択捉島などのアイヌとの交易を盛んに行い始めていた。

■ロシアの動き
・1649年、ロシアはユーラシア大陸の太平洋岸に「オホーツク」の町(砦)を建設した。
 ⇒ オホーツクは、極東地域で太平洋に面したロシアの最初の入植地となった。
・18世紀に入る頃にはカムチャッカ半島を領有し、さらに千島列島に南下しはじめた。ロシアの南
 下の動きは江戸幕府を刺激した。
はんぺんごろう事件
 1771年、シベリアへ流刑されたベニョブスキーが船で脱走し、阿波徳島に流れ着いたが、幕府に
 より上陸を拒否された。このためベニョブスキーは長崎出島のオランダ商館長に手紙した。
 手紙の中に、ロシアが侵略の意図をもって蝦夷地へ進出しているとの内容が書かれていた。この手
 紙を幕府が知るところとなり、ロシアに対する警戒を強めた。
 ⇒ この事件は、「ベニョブスキー」をオランダ語読みした「ファン・ペンゴロ」の名を取り、
   「はんぺんごろう事件」という。 
・1778年、国後島にロシア船が来航。翌年にも来航し、松前藩との通商を求め、厚岸(あつけし)
 で交渉が行われた。この時、松前藩は幕府に相談しないで通商を拒否した。

■日本とロシアの動き
・1783年、ロシアの南下に危機意識をもった仙台藩医の工藤平助は、『赤蝦夷風説考』を著し、
 蝦夷地を国土に組み入れる必要性を説いた。
・1785年、工藤の考えを知った老中・田沼意次(おきつぐ)は最上徳内(もがみ とくない)らの
 蝦夷地巡視隊を派遣した。
・1792年、女帝エカテリーナ2世の命を受けたロシア使節・ラクスマンが、日本の漂流民・大黒屋
 光太夫(だいこくや こうだゆう)ら3名を伴って根室に来航し、交易を求めた。

 
◆「大日本恵登呂府(えとろふ))」の標識の建立
・1798年、ロシアの動きに危機感を抱いた幕府は、総勢180名の蝦夷地巡視隊を派遣した。
 ⇒ このとき、幕臣の近藤重蔵や最上徳内らは択捉(えとろふ)島に渡り、「大日本恵登呂府」の
   標識を建て、日本の領土であることを宣言した。

 
◆ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛
・国後島に入った軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンが幕府によって捕えられた報復として、1812年
 高田屋嘉兵衛が、国後島の沖で、ロシア側に捕えられカムチャッカ半島に連行され抑留された。
 翌年、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の身柄を交換することで、この問題は解決した。

 
◆間宮海峡(まみや かいきょう)の発見
・1808年、幕府は樺太(からふと)の調査のため、間宮林蔵(まみや りんぞう)らを派遣した。
 それまで樺太は半島か島か分かっていなかったが、樺太はユーラシア大陸と海峡(間宮海峡)で隔
 てられている島であることを発見した。
 ⇒ オランダの医師・シーボルトが地図に「mamia seto(間宮の瀬戸)」と書いたので広く知
   られるようになった。

 
    U.日露和親条約からポーツマス条約まで  
     
■日露和親条約(1855年)
 条約名:日本国魯西亜国通好条約
 通 称:日露通好条約、下田条約、日魯通好条約とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では
     日魯和親条約と表記していた。
   *ロシアは、魯西亜、露西亜などと表記する
・1855年2月7日、伊豆・下田で、日本とロシアとの間で日露和親条約を結んだ。下田で結んだので 「下田条約」ともいう。
 *北方領土の日・・日露和親条約は2月7日に結ばれたので、2月7日を北方領土の日としている。

日露和親条約時の国境

・千島方面・・・択捉島と得撫(うるっぷ)島の間を国境
       とした。
       左図の千島列島(クリル列島)がロシア
       領。
       択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が日本
       領
。 この4つの島が北方領土である。
・樺 太 ・・・
国境を画定せず日本人とロシア人が居住
                      できる雑居地とした。


⇒ 日本は北緯50度を日露の国境にするように主張し、ロシアは日本人・アイヌ人が入植しているアニワ湾周辺の最南部だけを例外として、樺太をロシア領とすることを主張した。
このため互いの主張は平行線となり、その結果、国境を画定せず雑居地とすることで決着した。

※ロシア語でクリル列島とは千島列島のことを指しているが、択捉島、国後島、色丹島、
 歯舞群島の北方4島は含まれていない。
  北方4島はロシアの言うところの千島列島(クリル列島)とは区別され、南千島と扱わ
 れていた。



■樺太・千島交換条約(1875年)
・明治になってから、黒田清隆開拓次官がコストがかかる樺太は放棄することを主張し、特命
 全権大使・榎本武揚(たけあき)による交渉によって、1875(明治8)年、「樺太・千島
 交換条約」が調印された。

樺太千島交換条約時の国境

・千島方面・・・得撫(うるっぷ)島以北の千島18島は
       日本領

・樺 太 ・・・
ロシア領

⇒ この条約の第2条には日本に帰属する18の島々の名が北から順に列挙されている。
「『クリル』群島即チ第一『シュムシュ』島第二『アライ
                ド』島第三『パラムシル』島・・・第十八『ウルップ』島共
                計十八島」
 *ロシア語でクリル列島とは千島列島の事を指しているが、択捉島以下の千島(国後島、
  色丹島、歯舞群島)は含まれていない。
  ⇒ 北方4島はロシアの言うところの千島列島(クリル列島)とは区別され、南千島とし
    て扱われていた。



■ポーツマス条約(1905年)
・日本は日露戦争で勝利を収め、ポーツマス条約を結んだ。

ポーツマス条約時の国境


・千島方面・・「樺太千島交換条約」で定めた国境に同じ
       
ウルップ島以北の千島18島は日本領

・樺 太・・・・・樺太の半分に当たる北緯50度以南が日本の
        
領土になった。



 
    V.対日参戦からミズリー号艦上での調印まで  
      <主な歴史的事項>
・1922年 ソビエト連邦成立
・1941年 
   4月 日本とソ連の間に「日ソ中立条約」を締結        
      *正式名称:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国連邦間中立条約
  12月 太平洋戦争(大東亜戦争)
・1945年
  2月    ヤルタ会談(米国・英国・ソ連)
  4月    ソ連、日ソ中立条約を「延長しない」と日本に通告
  5月 8日 ドイツ、降伏文書に署名
  7月26日 ポツダム宣言の発出(米国、英国、中華民国)
  8月 8日 ソ連、日本に対して宣戦を布告。ソ連、ポツダム宣言に参加
  8月14日  日本政府、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告
        ※ポツダム宣言は米国・英国・中華民国の三ヶ国名で発出されたが、8月14日
         に日本政府がポツダム宣言を受諾する旨を連合国側に通告した時には、ソ連を
         含む四ヶ国になっていた。
         ⇒ 下に記す《 (参考) 終戦の詔勅 》を参照
     
  8月15日  天皇陛下の「終戦の詔」。
        日本の「終戦記念日」
  9月 2日  日本、ミズリー号艦上で降伏文書に署名 
        ロシアの「終戦の日」

■ヤルタ会談(1945年2月4日〜11日)
 ・ソ連のクリミア半島にあるヤルタで開かれた、ルーズベルト大統領(米国)、チャーチル首相
  (英国)、スターリン首相(ソ連)の三国首脳による第二次世界大戦の戦後処理に関する会談
 ◆ヤルタ協定ヤルタ会談で合意された協定。日本に関する主な決定事項は次の通り。
  ・ソ連の対日参戦問題
   ・ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること。その条件は南樺太及び千島列島の
    ソ連帰属、旅順租借権・・・。
    ⇒ ドイツ降伏は5月8日。ソ連の対日宣戦布告は3ヶ月後の8月8日。

    ※ヤルタ協定の第4項に定められたソ連の対日参戦は秘密条項で、発表されなかった
   
■ソ連の対日宣戦布告
(1945年8月8日)
 8月 8日 ソ連は日ソ中立条約に違反して日本に対して宣戦を布告し、満洲(現・中国東北
       部)、北朝鮮、南樺太、千島列島へ侵攻を開始した。
        ⇒ 4月にソ連は日ソ中立条約を「延長しない」と日本に通告しているが、条約
         では、通告後1年間、条約の効力が継続されることになっていた。
        ⇒ ソ連は、ポツダム宣言に参加。

■ポツダム宣言の受託・終戦の詔勅
 8月14日 日本政府、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告
 8月15日 昭和天皇の「終戦の詔勅」。( 終戦記念日)

 ◆8月15日以降のソ連の侵攻
 ⇒ 千島列島(ウルップ島以北)には、ソ連のカムチャッカ半島の部隊が侵攻。
 ⇒ 北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)には、ソ連の樺太部隊が侵攻。

(千島列島方面)
  8月18日 千島列島に侵攻
  8月24日 シュムシュ島(千島列島の北端)を占領
  8月31日 ウルップ島を占領

(北方領土方面)
  8月28日 択捉島を占領
  9月1日〜4日 国後島、色丹島、歯舞群島を占領

■9月2日、日本政府はミズリー艦上で降伏文書に署名
 日本政府は、9月2日、連合国側との間で正式に降伏文書に署名した。


          (参考) 終戦の詔勅 
 〜 ポツダム宣言は、米・英・中の三ヶ国から米・英・中・ソ連の四ヶ国になった 〜
ポツダム宣言は米国・英国・中華民国の三ヶ国名で発出されたが、途中からソ連がポツダム宣言に参加したため、8月14日に日本政府がポツダム宣言を受諾する旨を連合国側に通告した時にはソ連を含む四ヶ国になっており、昭和天皇の「終戦の詔勅」では次のようになっている。
 〔 終戦の詔勅 〕 
原文 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ
 訳文 (わたくし)は帝国政府に、米国・英国・中華民国・ソ連の四ヶ国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通 告させた。 

■「終戦の日」のとらえ方と領土問題
・日本は8月14日にポツダム宣言を受諾し、15日に昭和天皇の「終戦の詔勅」により8月15日を
 終戦記念日としている。
・ソ連は、日本が連合国側と正式に降伏文書に調印したのは9月2日を「終戦の日」としている。
 そして、北方四島の占領は、日本との戦争中に行われたものだと国民に教えている。

 
    W.サンフランシスコ講和会議からソ連崩壊まで  
     
・1951(昭26)年 サンフランシスコ講和会議
・1955(昭30)年 鳩山一郎内閣、日ソ間の講和条約に締結に向け取り組む
・1956(昭31)年 モスクワで「日ソ共同宣言」を発表
・1960(昭35)年 日米安全保障条約の改定
         ⇒ 日米安保条約の改定に伴い、ソ連の態度は次の様になった
          @北方領土返還交渉の前提として日本領土からの外国軍隊の撤去が条件
          A「領土問題は解決済み」という態度を取り始めた。

■サンフランシスコ講和条約(1951(昭26)年9月8日)
   *第二次世界大戦後の、日本国と連合国各国の平和条約。この条約の発効により、連合国
    による占領は終わり、日本国は主権を回復した。
    1951年9月8日調印。

・サンフランシスコ平和条約第2条には日本の領土が次の様に定められ、「千島列島・南樺太とこれに近接する諸島」を放棄することになった。

 第二条【領土権の放棄】
 (a) 省略
 (b) 省略
 (c) 日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として
    主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び
    請求権を放棄する。

上記の千島列島の解釈
◆ロシア・・・・ロシア(旧ソ連)はサンフランシスコ平和条約に署名していないが、この条文
      にある千島列島(The Kurile Islands)には北方領土(択捉島、国後島、色丹島、
      歯舞群島)が含まれるという態度をとっている。

◆日本・・・・・・日本はロシアとの間で結んだ領土に関する三つの条約(@日露和親条約、A樺太・千島
      交換条約、Bポーツマス条約)は、いずれも北方四島は日本固有の領土と認めていた。
       当然、サンフランシスコ平和条約第2条に出てくる「千島列島」は北方四島は入
      らないとの考えである。

※日本は、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は、放棄した千島列島には含まれて
 いない。
 ロシアは、千島列島(The Kurile Islands)に北方領土が含まれていると主張している。

 
    X.ロシアのエリツィン大統領から現在まで  
     
1989(平 1)年 ベルリンの壁、崩壊
1990(平 2)年 東西ドイツ統一
1991(平 3)年 ソ連が崩壊
1993(平 5)年 日ロ両国の首脳による 「東京宣言」
           日本:細川護熙首相  ロシア:エリツィン大統領
1997(平 9)年 シベリアの都市・クラスノヤルスクで会談
           日本:橋本龍太郎首相 ロシア:エリツィン大統領
1998(平10)年 静岡県伊東市の川奈で会談
           日本:橋本龍太郎首相 ロシア:エリツィン大統領
1999(平11)年 エリツィン大統領が辞任 
2001(平13)年 シベリア東部の都市・イルクーツク会談
         「イルクーツク声明」
           日本:森首相  ロシア:プーチン大統領 
2010(平22)年 メドベージェフ大統領が国家元首として初めて北方領土の国後島に上陸した
2012(平24)年 プーチン大統領の返還論


 


 ■日本と新生・ロシアとの北方領土に関する会談の概要 
   期間:1993年〜2001年

  会 談   概     要  
   東京宣言
1993(平5)年10月
 東京宣言第2
@択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の帰属問題を、歴史的ならびに法的な事
  実、日ロ間の合意のうえ作成された諸文書、法と正義の諸原則を基礎として解
  決して早期に平和条約を結ぶ。
A日ソ間の条約や国際約束は、ロシアに引き継がれる。
 
  日本:細川護熙首相  ロシア:エリツィン大統領
 
  クラスノヤルスク合意
1997(平9)年11月
 
「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」
で合意
  
   日本:橋本龍太郎首相  ロシア:エリツィン大統領
    *クラスノヤルスクは、シベリア中部の都市
 
   川奈での会談
1998(平10)年
橋本首相が、エリツィン大統領へ一つの提案をしたといわれる
@択捉島とウルップ島の間に国境線を引き、四島は日本に帰属することを示す。
A返還について政府間合意ができるまでの間は、(四島すべてについて)施政権
  はロシアが行使する。B以上二点を平和条約に規定する。

   日本:橋本龍太郎首相  ロシア:エリツィン大統領
    *川奈は、静岡県伊東市の川奈
 
   イルクーツク会談
2001(平13)年
 イルクーツク声明
 ⇒ 1956年の日ソ共同宣言を基本的な法的文書と位置付けている

    日本:森喜朗首相  ロシア:プーチン大統領
     *イルクーツクは、シベリア東部の都市
 

 ■プーチンの返還論

      2012年3月、大統領再登板を目指すプーチンが外国メディア向けの記者会見で語った言葉は注目を集めた。

「私たちは、この状況で受け入れられる妥協を求めていくべきです。それは“ 引き分け ”のようなものです。
(中略)北方領土問題を最終的に解決したいと強く願っている。私が大統領になったら。一方に日本の外務省、もう一方にロシアの外務省を置き、彼らにこう言います。始め!」

 柔道の用語を使って領土問題解決の意欲を語ったのだった。この言葉を聞き、多くの日本人は、プーチン体制のもとで北方領土問題が進展するのではないかと期待した。
       (出展:山田吉彦著『侵される日本』(PHP 2014年3月27日 第1刷第1版)
 
         
         

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